2016年10月22日
ネパール体験隊
佐藤寛
HIROSHI SATO

一般参加:会社員








 
 MIAA(宮城国際支援の会)の活動でネパールに行ってきました。ネパールの首都カトマンズにあるトリブバン国際空港には日本からの直行便がなく、タイの首都バンコクにあるスワナプーム国際空港を経由して、ネパールに入国しました。 ネパールではライオンズクラブカトマンズスクンダのアショックさんとテクさんが迎えに来てくれました。初めてのネパールで、日本語も英語もまともに通じないと思って覚悟してましたが、ライオンズクラブに方々は日本語が上手で驚きました。今回の渡航ではライオンズクラブの方々にはとてもお世話になりました。
 
 
滞在したホテルにはWi-Fi環境があり想像していたよりは快適でした。Wi-Fiがあればいろいろな情報が引き出せます。この点について日本はまだまだ国際的に後進国です。

MIAAの活動初日は、孤児院の視察をしました。両親を病気で亡くし行き場のない子供たちを集め、寄付金だけで経営している孤児院です。孤児院は学校にもなっていて、子供達が社会に出れるように7人のスタッフが頑張っていました。

MIAAの活動2日目は、トーレチトレ村マハカリ小学校に行きました。山岳地帯にある学校です。マハカリ小学校はなんと標高2000mの場所にありました。車で悪路1時間半進み、その後徒歩でさらに1時間弱歩いてやっと着きました。ここでは2015年4月25日に起こった大震災で建物が倒壊し再建をしていました。私たちは学校給食を配布し子供たちの支援を行いました。
その後、カガチ村学校に行きました。こちらも山岳地帯の学校です。こちらでも学校給食を配布し子供たちの支援をしました。驚いたのはゴミの処理の仕方です。ビスケットなどの食事を渡したのですが、包装紙をその辺に捨て始めました、子供たちだけではなく学校の先生もです。行儀が悪いと一瞬思いましたが、そもそもゴミを集めて捨てるという我々日本人が常識だと思うことが、現地の人には知識として無いのだと聞かされました。ネパールの支援は食事や建物などの物だけではなく、環境に対する知識などの支援も必要なのだと思いました。
     
MIAA(宮城国際支援の会)の活動3日目は、老人ホームに行きました。ここは道端で寝泊まりしているような老人を民間が運営する老人ホームの方々が保護して出来たとの事でした。孤独老人の問題は、日本だけではないのだと他人事ではなく感じました。 その後、市街にある私立の学校に訪問、こちらも2015年の震災で校舎が激しく倒壊し、現在修繕中でした。震災後生徒の数が減って経営が非常に厳しくなっていると言うお話も聞きました。

今回各施設にはMIAAに集まったネパール復興支援金を直接手渡しで渡してきたわけですが、まだまだ生活環境は良くはないです。日本では考えられないぐらいひどい環境で暮らしている方が多くいます。現地で目の当たりにすると、まだまだ支援が必要だと改めて思いました。
でも、今回の活動ではとても多くの出会いがあり、多くのことを学びました。みんなとても幸せそうで、いい笑顔でした。うつ病や自殺など無いそうです。日本は生活が豊かなのに、心が病んでいて心が貧しい人が多いと改めて感じました。ネパールの子供達を支援しに行ったのに、逆にパワーをもらいました。

私も日本とネパールをつなげる架け橋になり支援が出来ればと思います。いつか支援した子供たちが日本とネパールを行き来して、お互いに良い関係が築いていければと思います。

2016年1月10日
ネパール体験隊
安田
YASUDA


一般参加:会社員








 1月1日〜5日までネパール、カトマンドゥに行って来ました。初ネパールです。 地震の後なので不安でしたが、お腹も壊さず、無事、帰国することが出来ました。 子供の頃読んだ本で行ってみたい国が3ヵ国あり、その1ヵ国がネパールで、本の内容は 泥棒のいない国です(勘違いかも!)。小学1・2年の頃からネパールに行ってみたいと思っていました。 今回の目的は、友達とちょっとだけ支援しているカトマンドゥに住んでいる女の子と会うことでした。小学4年生位のシャイな女の子でした。
1日目 午後空港に到着し、ホテルチェックイン後ミーティング(訪問先の目的、時間/ 地震の被害状況等)夕方、支援している子供に会う。
2日目 7時30分ホテル出発 トーレチトレ村に地震で壊れた学校の視察に同行    
 夕方、日本語学校の先生(ネパール人)との対談に同行
3日目 朝7時から2時間半ぐらい町を散策(壊れた寺院、修繕中の王宮等)     
10時30分ホテルを出発してガガチ村へ 
 
カガチ村中学校前にて
 
カガチ村仮設住宅
 
診療所、壊れた家、仮設住宅(8畳くらい)を見て回り坂の上の学校へ(ノートとペンを贈呈していました)
子供達と写真撮影、授業中の教室見学等。 
夕食はネパールの皆さんと
4日目 朝6時にホテルを出発し2回目に大きな地震があった震源地に近いサクー村の視察に同行。 午後、買い物と観光(スワヤンプナート) 夕方、支援している女の子に会う。 夕食はネパールの皆さんと 5日目 10時頃ホテルをチェックアウトし、空港へ     
途中パシュパティナート観光(30分位) 以上が私のネパール滞在でした。9年ぶりの海外でしたが、途上国に10カ国以上は行っていますが、地震の影響なのか道路事情がダントツに悪く、ホテル近くの歩道は壊れた煉瓦等で歩くのが大変でした。地震で崩れたり、傾いた建物を見て回りましたが、柱が木造、壁は煉瓦造りが多く、古い程壊れている様です。 犬(野良犬?)は放し飼いで、ゴミを漁っている犬がたくさんいました。人に吠えるでもなく、周りの人々も気に留めるわけでは無く、犬の住みやすい処です。猫は町でも村でも1匹も見ませんでしたので、猫好きな私には写真が撮れなくて残念でした。 ネパール人は穏やかで、真面目な人々が多いと感じましたが、町も村もゴミが沢山落ちているのは屋外にゴミ箱が無いので仕方ないのかなー? ダ゙ティンのマイディ村に2011年からもう一人支援している女の子にも会い行きたかったし、ポカラにも行ってみたかったです。


2014年10月20日
ネパール体験隊

千葉修一
SHUICHI CHIBA

一般参加:会社員


 
 道路事情が悪いのがとにかく印象的でした。幹線道路も悪いのですが、そこから外れると、とても普通乗用車では走破できない路面環境です。 我々は、パジェロに乗り換えて行き来しましたが、平均時速10Kmというスピードしか出せない状況です。 同行頂いたライオンズ クラブ カドマンドゥ スクンダのウッタム氏やアショク氏、テク氏は、バイクの2人乗りの後ろに乗っての移動でしたが、背骨系を傷めそうな状況、実際、物凄く腰が痛くなったそうです。
 カトマンドゥ市内では、たくさんのSUZUKIの軽自動車が走ってましたが、あの車で郊外にでかけるのは、不可能でしょうね。 あれは市内専用のスニーカー代わりの車なのでしょう。 車に、adidasとかのスッテカーが貼ってあったのはそのせいかな。  交通インフラの整備が環境を劇的に変えると思いますが、そこはやはり政府がやるべき仕事だと感じます。訪問時はカトマンドゥ市の外周道路と内側さらに外側を接続する幹線道路の工事が多く行われていたうようですが、地方まで整備されるのは、まだまだ先のことになりそうです。
 政治が安定し、そこに貧困地区代表の議員が参政することにより変化は訪れるのではないでしょうか?そのためにも、多くの子どもが学校に通い教育を受ける事は、地区にとっても重要な問題という認識なのでしょう。物凄く長いスパンの話のように思いますが、教育の成果とはそういうものです。
 最初に訪問したカウレ村、次に訪問したベルコット地区、学校規模の面では、カウレ村の方が小さく待機児童もいるようでしたが、カウレ村の学校は幹線道路沿いにあり、他団体でも支援が可能との判断で、より訪問が困難なベルコット地区への支援に、宮城国際支援の会の鈴木信さんとしては、使命感を感じたようです。  ベルコット地区は学校規模も大きく、生徒数先生もたくさんいて、要求されてる内容も基本は教室の増設ですが、利用目的としては、サイエンスラボ(化学実験室)とか図書館とかレベルの高いものでした。より充実していこうという意識が高く、それがエリアとして、発展の良い模範例になり、他地区にも良い影響を与えることを期待します。
 民家の家の入り口に家族写真が飾られていたことや、子どもたちのカメラへの写りたがり度を見てておもったのですが、写真を撮るだけじゃなく、撮った写真をプリントアウトしてあげるのは大変喜ばれる気がしました。思い出をプレゼント これもメンタル面での支援になるのではないか? ポラロイドカメラ系持っていったら、喜ばれるんじゃないでしょうか? お金かかるし、凄い人だかりになりそうだし、写らない子もとか、もらえない子もいたりして、ある程度の工夫は必要ですが、ゲーム形式で、勝った人に写真プレゼントとかなんて面白いかもしれません。 じゃんけん大会とかね(^^; 
 帰りにみかけた子どもたち、 学校にはいなかったようですが、 色々な事情で、通えない子たちは、 まだまだ、たくさんいるようです。 でも、この子らもくったくなく、 手を振ってくれました。  
そういえば、 折り紙使うヒマなかったな〜。 高橋親子のじゃんけん大会の賞品 にでも使ってもらえば良かった

2014年10月20日
ネパール体験隊

 高橋亜季
AKI TAKAHASHI


一般参加:会社員
  私が日本に生まれ、今まで24年間何不自由なく生きてこれたこと。当たり前だと思っていたことが、当たり前ではなかった。 私は今までカンボジアに学校を建てるとか、海外に支援活動をしに行くとか、私には無縁な世界だと思っていました。それが今回ネパールへボランティア活動に行くことになったのは母親のよく分からない説明と、見事にいろんなタイミングが重なったからでした。ネパールには今しか行ける機会はないかもしれない、そして家族で行けることが何よりも意味があると思ったので、母と妹とネパールに行くことを決めました。 ネパールに到着し、学校へ視察しに行く前にネパールのライオンズクラブの方々とミーティングをするまで、ネパールの国のことや、山岳地帯に住んでいる人々の状況やなぜこのような支援が必要なのかよく分からなかったことが正直なところです。 いよいよ学校訪問日。1つ目に訪れたカブレ村の学校では子どもたちが作ってくれたレイで歓迎していただきました。学校の第一印象は、「かわいくて物語にでてきそうな建物」でした。
 
 
日本の建物にはみない形で、手作り感があふれてとても好感を持ちました。 教室の中は、机、椅子、黒板・・・低学年の教室には下駄箱があるだけのシンプルな教室でした。私が通っていた学校の教室みたいに掲示板やロッカー、教卓、体操着がかけられるフックなんてものは一切ありませんでした。でも私にはそのシンプルさがなぜかとても心地よかったです。
空気も良いとは言えない、外の光だけの薄暗いところで子どもたちは毎日勉強しています。それがその学校に通う子どもたちにとっても当たり前の毎日。 その日のうちにもうひとつ、ベルコット村の学校へ訪問しました。その学校への道のりが今までに経験したことのないでこぼこ道で一歩間違えればみんな一緒に谷底へ・・・というような山道をジープで1時間かけて向かいました。やっとの思いで着いた学校では竹で作られたWelcomeアーチと子どもたちが作ってくれたレイ(この日2回目)で熱烈なお出迎え。ここまで来る道のりで心が折れかけた私たちに最高の特効薬でした。 カブレ村の学校よりも大きかったので子どもたちの人数も多く、時間もあったのでネパール語の「お母さん」「子ども」「姉妹」を教えていただき、子どもたちの前で家族3人でネパール語で自己紹介し、日本語の“お母さん”を教えることもできました。(できたかな?笑) 死ぬ思いで山道を帰る途中、雨が降ってきて本気で無事に帰れるか不安でしたが、うでのいい運転手さんのおかげで安全な道まで送り届けてくれました。 雨が止み、休憩所で休んでいたところ、霧がはれてきてラッキーなことにヒマラヤ山脈がとっっってもきれいに見えました!!!
今回の旅でいちばん感動した光景かもしれません。 翌日、宮城国際支援の会のみなさんが初めて支援し建てたカバチ村の学校へ給食を配りに行きました。思っていたより学校も大きく、運動ができそうなスペースもあり(テニスコート1面くらい)、子どもたちも今まででいちばん気さくに私たちのカメラに興味を示していました。 子どもたちにカメラを向けるとわーっと寄ってきてどこまで写せばいいのか困るくらいでした(笑)
今回3つの学校を訪問しましたが、日本の暮らしが当たり前な私にとって学校に通えない、おなかいっぱい食べることさえできない、洋服も1枚しかない、そんな現実を目の当たりにして私が今抱えている悩み事はなんて贅沢なんだろう。そう思いました。 私がもし、日本に生まれていなかったらもっと貧しい暮らしをしていたかもしれない。当たり前に過ごしていた日々に感謝です。そして日本は本当に恵まれていて平和できれいで素敵な国。母国、日本のことも更に大好きになりました。 国際ボランティアなんて縁がないと思っていた私が今回ネパールへ行ったことで、世界の現状へ少し興味が湧いてきました。アジアではネパールがダントツで支援が必要な国のようです。私も同じアジア人として会いに行った子どもたちへ何かできることはないか、考えています。 またネパールに行く機会があれば、今度は英語を勉強して彼らともっとコミュニケーションをとり、彼らに世界にはいろんな国があって私が育った国、日本のことをもっと教えてあげたいと思っています。 ネパールという国には正直何か魅力を感じたかというと分かりませんが、あの子どもたちにまた会いに行きたい。それは強く思います。 やっぱりどこに行っても、最後は“人”なんだと改めて感じました。 こんな貴重な経験をさせていただき、本当にありがとうございました。

2014年10月20日
ネパール体験隊

高橋真由
MAYU TAKAHASHI


一般参加:大学生
  10月20日から24日までの3日間、ネパールでのボランティア活動。ネパールへ行く前、自分の中には、「ボランティアがしたい」という漠然とした思いがあったため、ただ楽しみであり、海外へ行くことの抵抗もなく、不安はひとつもなかった。しかし、ネパールの空港に着いたときから、自分自身の気持ちに変化があった。決して綺麗とは言えない街では、衛生面にも問題があり、空気も汚れているような気がした。先進国で生まれ育った私にとって、初めて“異国の地”であることを実感したのである。 今回は学校の視察であり、3つの村を訪れた。まず1つ目は、カブレ村。学校の建物自体はとても小さく、生徒数も少ない。崖の上に建っているようで、安全な場所とはいえなかった。教室の中は、4人ほどが座れる長い机と椅子が並べられているだけの小さな空間。もちろんそこには電気もなく、窓から差し込む太陽の光が、微かな明かりを灯している。2つ目に訪れたベルコット村の学校は、建物も比較的大きく、生徒数も多い。しかし学校内の様子は同じような光景であった。ただこの2つの村の一番の異なる点は、その村へ行くまでの道である。どちらも都市部からは離れているが、2つ目に訪れたベルコット村は、人が通れるような道はなく、車に乗っているだけでとても体力を奪われるような過酷な道であった。どちらも同じ状況に見えたとしても、支援がなかなか行き届くことができないのは、道路整備が行われていない村のほうである。学校の姿だけを見るのではなく、そこに行くまでにも、様々な問題があるのだと、今回現地に行ったことで気づくことができた。 建物はとても大きく、生徒たちが運動できる校庭もある。教室数も多く、生徒数も多い。ここで私たちは一人ひとりに給食を配った。目を見て、挨拶をしながら、手渡しで生徒たちに渡すことで、少しでも距離が縮んだような気がして、その後は生徒たちとたくさん遊ぶことができた。もちろん、言葉が通じ合うことはない。きっとお互い何を話しているかは明確に理解することはできていなかっただろう。しかしあの時、笑い合っていた時間はきっとお互い何かを感じ取ることができていた。
3つの学校を訪れて、“貧しい”と言われている子供たちに接したが、果たしてその子供たちは不幸であるのか。貧しいと不幸をイコールで繋げて良いものなのか。学校の教科書や、テレビで見たことがあるような光景を間近にして、可哀相と嘆く自分を想像していたが、そのようなことよりも、子供たちからパワーをもらったのは私たちの方であった。きっと、可哀相だと決め付けているのは、先進国に住む私たちのほうであり、現地で暮らしている方々にとっては“普通のこと”であるのかもしれない。何が不幸で、幸せか、というのは他人が決めるものではなく、自分たちで決めることであると、今回の活動を通して身体で学ぶことができた。この自分の身体で直接現地に行かないと気づくことができないものがたくさんあり、今後は、“ボランティアがしたい”という漠然な思いだけではなく、具体的に行動できるように、自分が今やるべきことを明確にしていこうと思う。

2013年08月25日
ネパール体験隊

穴澤好一
KOUICHI ANAZAWA

MIAAサポーター
FOREST副代表理事

 
FORESTは「人間貢献」「地域貢献」「世界貢献」を目的とし、2005年に仙台で発足した非営利団体です。世界貢献活動の第一歩として、ネパールのサピン村に診療所を建設するプロジェクトを昨年から開始しました。この度、第一期工事(予算100万円)が無事竣工したため、現地視察とプレオープニングセレモニーに参加するため、ネパールへ旅立ちました。空港ではカトマンズライオンズクラブの方々4名が温かく出迎えてくれました。軽くミーティング後ホテルへチェックイン、近くのダルバール広場周辺を観光し1日目を終えました。

2日目、4時起床いよいよサピン村へ出発です。途中の町ブリーテルでは、なんとヒマラヤ山脈が一望できました。雨季にここまで綺麗に見えるのは稀で、とてもラッキーでした。車に揺られること3時間、ようやくサピン村へ向かうつり橋に到着、ここから先は山道を2時間半かけて登ります。雨季の間続く雨で途中何ケ所も土砂崩れしていたため、足元が悪く想像以上に大変な道のりでした。なんとか診療所に到着すると近くにある学校の生徒や村人300人ほどが出迎えて歓迎してくれました。集まってくれた子供達や村人の顔を見ると疲れも一瞬にして吹き飛びます。30分ほどのセレモニーを終え、テープカットし診療所の中に入ると、感動して思わず目頭が熱くなりました。もう少しゆっくりしたかったのですが、気温が高くなる前に下山しないと熱中症の危険があるので、写真を何枚か撮り、早々に診療所を後にしました。帰りに学校の前を通ると、先ほど集まってくれた子供達が笑顔で手を振ってくれました。来てよかったなとしみじみ感じた1日でした。
3日目、MIAAが10年間支援を続けているカガチ村の小中学校へ給食配布に向かいました。普段ならカトマンズから1時間ほどですが、この日は雨の影響で道がぬかるみ、途中で車を降りて徒歩で学校へ向かいました。ここでも前日のサピン村同様に大勢の子供達の歓迎を受けます。そして、ビスケットとマンゴージュースを1人ずつ手渡しで配布すると、はじめは見慣れない日本人やカメラに緊張していた子供達も徐々に打ち解けて、笑顔を見せてくれるようになりました。初めは50人程度だった生徒も今では500人に達し、校舎も増築されました。設備は徐々に充実してきているものの制服はサピン村の子供達よりボロボロで、まだまだこの村での生活は大変そうです。その後、MIAAで最初に支援した村の診療所に向かいました。想像以上の大きさで、自家発電機やレントゲン等の設備も充実しており、診療所というより病院といった感じでした。この日は支援を続けることの大切さを学びました。
4日目、最終日はホテル周辺で買い物を済ませ、早々に空港へ向かいました。この日はお祭りだったらしく、いつもは混雑している道も空いていて快適に空港に到着。滞在中特にお世話になったウッタムさんとアショクさんに見送らせてネパールを出国しました。 最後になりましたが、この機会を与えてくれた鈴木信さんはじめMIAA、カトマンズライオンズクラブスクンダ、サピン村、FOREST全ての関係者に感謝申し上げます。来年の診療所完成グランドオープンに向け、引き続きご指導とご協力よろしくお願いいたします。


2010年8月25日
ネパール体験隊

大友 勝普
OTOMO

MIAAサポーター
会社員









 
この度ネパールでの支援活動に参加する機会を与えて頂きました、宮城国際支援の会の皆様、並びに、FORESTメンバーの皆様、現地で案内頂いたライオンズクラブの皆様に厚く御礼申し上げます。  さて、以前から宮城国際支援の会の活動などは、直接携わっている方の話や、ホームページ内で知ることはできていましたが、私には一つだけ消えない疑問がりました。 「支援の必要な、国や人がいる」…。それはわかります。「日本よりもはるかに貧しい」…。 それもわかります。消えない疑問というのは、そういう逼迫した現状に対し、活動を継続していくみなさんの原動力はなんなのか?彼らを支援し続けるという行動の為に、皆さんの「想い」を突き動かすものはなんなのか?当然、会長である鈴木信氏や他、実際に行った方にも直接聞いたこともありました。今回は「実際に現地に行ってみて感じる事」その上で「活動に突き動かす物とはなんなのか?を知る事」そんな事をテーマに挑みました。  ネパールに到着して… カトマンズ空港におりて感じたこと、タラップから降りてまず、臭いが気になりました、容易に下水の整備が整っていない事がわかる匂いです、そこから車で移動中、信号はなく(厳密にいうと機能していない)交通ルールがあるのかと思うような混雑と道路のいたるところ凸凹、砂やほこりが舞上がり、野良犬だらけ、露店の店裏で普通に排泄…。空気は濁っている。それがネパール最大の都市に着いた時の印象です。環境についてはさておき、その後市内を歩いた時の印象は、たくさんの店が立ち並び、人がたくさん行き来する…。下手すると私の町より活気にあふれた町、という印象がありました。ただ、素直に良い環境ではないというのが感想です。  サピン村・カガチ村にて… カトマンズ市内から車で約2時間、そこから車を置き、2時間半かけて山を登ったところにサピン村はあるとの事。この文章だと読んだ方は「へぇ」と日本の山に向かうようなイメージになってしまうと思います。実際は前述の道路状況に加えてネパールは雨期だった為、ぬかるみや土砂崩れの危険が常にあるような状況です。山を登った際は、山道は山道というより、けもの道。道中前日の雨の影響で土砂崩れがあったり、村の人であろう方が具合の悪い子供を背負って村から降りてくる場面と遭遇したりしました。すれ違った地点はちょうど登り始めて1時間を経過した頃で、私は息も上がり、汗もびっしょりの状態でしたので、「彼らはこれからあと半分の道を降り、そこから病院を目指すのか…」とまだ村に到着していないのに村での生活の大変さがじわじわにじみ出てきました。 村に到着し、一番最初に感じたことそして忘れられない事、それは衣服の貧しさでも、衛生環境の悪さでもなく、子供たちの「笑顔」が一番最初に目に映り込みました。環境や状況については、既にほかのレポートにもある通りです、はっきり言ってしまえば村の環境は「劣悪」なんです。ですが、彼達の笑顔の素敵さは、その劣悪な環境すら凌駕します。(どのような言葉が適切でしょうか…)、そんな彼らの中で医療を受けられなくて死んでしまう子が必ず発生してしまうという事実、そんな彼らが満足な栄養を取ることができていないという事、そんな彼らが劣悪な環境にいるという事、そんな彼らが今迄学べずにいたという事実。まとめるとするなら、 「彼達、彼女たちの笑顔を奪うものがこの国にはまだまだたくさん存在する」 という事だと思います。 今回は診療所の一期工事が完成し、そのプレオープニングセレモニーに参加させて頂きましたが、これから彼ら笑顔を増やすためのものが一つ増え、笑顔を奪うものが一つ消えたと思うと、本当に自分の事のようにうれしく思いました。  翌日のカガチ村では、学校で給食の配給のお手伝いをさせて頂きました。 ここで感じたことも同じ、子供たちの笑顔が素晴らしいという事、こちらの村は、サピン村より先に、学校も診療所も運用開始していますので、その進捗状況が分かりました、 特に診療所はだいぶ整備も進んでいて、レントゲンなども撮影できるような状況になっておりました。また診療所内にある多目的スペースは村の人々の勉強会の場になっていて、 その日は「就職セミナー」のようなものが開催され、間違いなく「素敵な未来へ向くための行動を村の人自身で動かしている」が、実感できました。いずれサピン村もそうなっていくのだと思います。 おわりに  ネパール滞在の4日間で感じたことは、街中と村の人の生活の差、要は貧富の振れ幅の大きさ、それを理解するには、この国の歴史やもっとこの国の本質的な事から、知らないといけないんじゃないか?そうしないと本当の解決にはならないのではないか?と思いました、鈴木信氏に尋ねた際、こんな話を頂けました。  まずこの国には自国で開発できる産業がない事、北をヒマラヤ、3方向をインドに囲まれている、アジアの中でも独特な歴史をたどった国である事、産業を発展させるためには個々の能力を上げていかなければ発展しない、だからまず学校。その次に、村で生活している人たちは村で獲れたものを食べ生活をしているから栄養が偏る、診療所ができれば、栄養が偏るという事を理解し、何が必要だと知る事にもつながっていく、だから診療所。 とお話しを頂き、妙に納得してしまいました。大人たちは頑張らなくてはいけませんが、子供たちの未来も同じ道であってはならない。「支援」ではありますが、あくまで進化、発展していくのは自国の人たちであって、活動はあくまでそのきっかけを与える(気づきとでもいいましょうか)事なのかと。最後に、この渡航で私が知りたいことは、ぼんやりとですが浮かんできました。きっと今後は「何で?」なんて聞くことはないと思います。そして自分にできる事、自分にしかできない事、自分だからできる事を見極め、少しでも力になれればという思いを胸に日本に帰ってきました。   

2012年7月24日
初めての海外 
なんでネパール?

佐藤 好

KONOMI SATO


高校生

  
飛行機の窓から見える山々、「これが世界の屋根ヒマラヤか。窓の高さと同じ高いな。」もうすぐ8月だというのに山には雪が残っている。ブータンからアフガニスタンまで2400kmもつながっているそうである。もちろんエベレストもそのなかの1つの山である。もうすぐカトマンズの飛行場だ。 何で高1の私がハワイでもヨーロッパでもなくネパールに来たかと言うと父のせいだ。「夏休みに海外行ってみるか?」なんて父が言うから「海外なんて行ったことないし、部活も休みだし、暇つぶしに良いかな。」って簡単に返事してしまった。父は私が生まれる前から国際支援とか言ってネパールの支援をしているらしい。学校の修理をしたり、教室作ったり、病院建てたりしてる写真を何枚か見せてもらった記憶がある。  今回は支援している学校訪問と現地の調査、ネパールで一緒に活動しているグループの人達との交流会が目的らしい。 ガヤガヤガヤ ピピー ブブー クラクションがやかましい、人がごちゃごちゃ、車、車、車ばかり。なんで牛が車の脇歩ってんの?ここがカトマンズ、埃っぽい街。茶色い街。古い煉瓦の壁に木彫の窓、彫刻が立派な寺院、世界遺産の街。 もうすぐ父の友人のシバさんの店がある。シバさんはタメルという地区で洋服やバックを売っているお店をしていて、お兄さんが私の家の近くに住んでいる。その息子がラビと言って2つ年下の小さい頃遊んだ友人、もう何年も会っていなくて今回ネパールで会うこととなるとは思ってもいなかった。ラビは夏休み中ずっとネパールにいるらしい。  ナマステ!父がシバさんと握手している。後ろから小さくこんにちは(ぺこり)。シバさんのお店でしばらくいるとほどなくしてラビが入ってきた。「好ちゃんしばらく!!」相変わらずにぎやかである。ちょっと太って身長が伸びていた。ラビと一緒に入ってきた女の子、まどかちゃん。一緒にネパールに来たそうだ。5つ年上のお姉さん。まどかちゃんは私に積極的に話しかけてくれて、すぐに仲良くなった。お金がなくなるまでネパールで、いろいろ勉強するらしい。私も高校を卒業したら、まどかちゃんにネパールのことについて教えてもらいたい。 この後、みんなで昼食を食べに行った。商店街を歩く、お店にはカラフルな洋服、バック、小物、興味ありあり。後でラビとまどかちゃんと散策しよう。  チベットレストラン ヤンギリ 現地でもおいしいと評判のお店に連れて行ってもらった。トゥクパ(野菜ラーメン)、モモ(シュウマイの形をした蒸し餃子)、チョウメン(ネパール風焼きそば)意外と口に合う。みんなで少しづつ味見。ちょっとピリ辛がうまい。本場の食べ物が食べられて、日本にはない味だと思った。他にはネパールの伝統料理ダルバートタルカリというのがあって豆のスープと数種類のカレーとご飯、漬け物のセットがあるらしい。日本で言うご飯とみそ汁、おかず、漬け物の定食といった感じだそうである。 3日目 ホテルのロビーで米子から着た人達と合流、親子で来てる。娘2人連れ、下の娘が私と同級生だと言うので少し親近感がわいた。みんなパンジャビドレスを着てた。この服は現地の服でサリーより簡単に着られる民族衣装だ。父の友人アショクさんが娘さんのパンジャビドレスを貸してくれるそうだ。今夜のパーティで着るドレス。似合うかな?初めてのことなので少し恥ずかしかった。 夜、みんな着飾ってパーティ会場へ、父と一緒に支援活動をしている人達との歓迎パーティである。みんな夫婦で来ている。歌手の歌を聴きながらバイキング形式の食事をして、しだいに踊る人が現れ、みんな手を引かれて踊り出す。釣られて私も踊ってしまった。恥ずかしかったがみんなに暖かい歓迎を受けた。初めて出会う方々なのに。楽しい、感謝、感謝。記念写真もたくさん撮った。 4日目 今日は帰りの日、ホテルのレストランでバイキングの朝食、記念撮影、なんかあっという間に過ぎてしまった。残念だったのは、父が支援している村に行けなかったこと。一緒に活動しているネパールの人達が記念式典とかパーティとかで忙しくて案内できなかったらしい。どんな村なんだろう?いつもたくさん写真を撮って来ては「見ない?」って言うけど興味がないから「はいはい」と返事はしてた。帰ったら見てみようかな? 次回来ることがあれば是非行ってみたいな。今度はゆっくりと観光もしたい。ビスタリー、ビスタリー!!ゆっくり、ゆっくり!
 

2010年8月24日
ネパールカガチ村体験隊

冨士原 貴行

TAKAYUKI FUJIWARA


とめ青年会議所 理事長

  今回の学校校舎建設事業に際し、ご協力いただきました、MIAA鈴木 信会長様及びメンバーの皆様、また現地にてご協力いただきました、ライオンズクラブの皆様には大変お世話になりました。 社団法人とめ青年会議所メンバーを代表して心より感謝を申し上げます。  渡航する前、現地の様々な状況、生活についてお話を受け頭で思い描いておりましたが、実際に現地に赴き自分の目で見、肌で感じる物は別のものでした。まず、空港について驚き国内線の空港で驚き、ポカラ、カトマンズの現地について驚きと、驚きと戸惑いの連続でしたが、これがこの国の現状なのだと認識いたしました。現地の食事の方は食べられないのではと危惧しておりましたが、そんなことはなく、私個人では美味しくいただかせていただきました。 (メンバーの中にはまったく食べなれなかった者もいましたが・・)
さて、今回の事業地、サンケソルマハラクスミ校、図書室及び校長室、落成式についてご報告申し上げます。 現在ネパールが雨季の為、アクセス道路の状況がかなり悪くもしかしたら車がそこまで辿り着けず、歩きになるかも・・・というお話を受け、心配しておりましたが、当日車で最後まで行くことが出来ほっと一安心致しました。ただそこまで行く道のりの中、本当にこんな山奥に学校があるのだろうか? 道行く先の家を見てこの地域にこのような施設が本当に必要だったのだろうか?  この地域の方々に対しおしつけではないのだろうか?  などとマイナスの考えがよぎりましたが、サンケソルマハラクスミ校到着後の皆様の熱烈なる歓迎のお出迎え受けその不安はなくなり、この事業によりこんなにもこの村や、学校に貢献出来たのかと感じることが出来ました。子供からおじいさん、おばあさんまで参加してくれた、落成式のセレモニーでは近年まれになく緊張を致しましたが、ご挨拶もさせていただき、また、歓迎のお食事も美味しくいただき、一生に残る出来事が増え、多くの感動をさせて頂きました。。
 

2010年8月20日
ネパール・タイ体験隊

深沢 加奈
KANA FUKAZAWA

一般参加:学生








 昨年に引き続き「宮城国際支援の会」のネパールでの支援活動に参加させていただきました。いくつかの小学校を訪問し、そこでこどもたちと触れ合いながら、ノートや鉛筆、給食の配布を行う、といった活動内容でした。 小学校に到着してみると、沢山の教室があり、想像していた以上の生徒の数に驚きました。 せっかくなので、こどもたちと何か話してみたい!と思い 「お名前は?」「元気ですか?」 簡単なネパール語を現地の方に聞き、いざこどもたちの元へ。 発音が間違っていたのか?最初は中々返事が帰ってきませんでしたが、何度かチャレンジしてみると、照れ笑いをしながら答えてくれました。それからはさすが遊び盛りです。鬼ごっこ?のようなものが自然と始まりましたが、でこぼこの地面に私たちが苦戦する一方で子供たちはぴょんぴょんと身軽に走り回り、すっかりやられてしまいました。 こんなに元気な子供たちでしたが、その日MIAAの方と一緒に配ったバナナや卵・ビスケットは滅多に食べられない贅沢品であり、洋服も1、2枚しか持っていないという生活を送っていると聞き大変驚きましたが、鈴木信氏やライオンズクラブの方々が教室にはいって挨拶をした時の子供たちのすごく嬉しそうな顔がとても印象的で、本当にこの日を楽しみにしているんだなあ、と感じました。 私もひとりひとりにビスケットを渡しましたが、はにかんで受け取る子や、にこにこしながら元気に「thank you!」と言ってくれる子、皆が本当に綺麗な瞳をしていて、この子どもたちがこの先もっともっと勉強して、きっとネパールを担っていくんだろうなあ、そうであって欲しいと思いました。 今回このような支援に参加させていただき感じたことは、「学校を建てる」ということには大変な時間や労力がかかるのはもちろんですが、建てっぱなしにするのではなく、継続して支援を行い村の発展や子供たちの成長を見続けるということには中々難しい部分もあるはずだと思いますが、それをやり続けるのは本当に凄い、ということでした。 このような貴重な体験をさせていただき、本当にありがとうございました。

2010年8月20日
ネパール・タイ体験隊

福島舞
MAI FUKUSHIMA

一般参加:学生


P8260628.JPG
 今回、ネパールでの国際ボランティアの活動に見学・参加して、いままで知らなかった、ネパールのことを身体で感じることができました。私は、国際ボランティアに参加するのは今回が初めてだったので、どんなものかと期待を込めて参加させて頂きました。 ネパールの子どもたちは皆細く、私たち日本人と比べてしまうと食環境の貧しさが伝わってきました。月2回の給食配給は、子供たちの楽しみになっているのかなと思い、この活動をもっと広げることができたら子どもたちはもっと健やかになるのかなと思いました また、山の上にある学校や村は土の種類が違うので野菜が育たないと聞いた時はとても驚きました。小学校で出してくれたカレーの中に入っていた鶏肉もあまり肉はついてなく、鶏自体も肉がついていないのかと思いました。卵が高級品というのも驚きました。無償で与えているだけではいけないのかもしれませんが、ネパール人皆の生活がもっとうまく回らないのかと感じました。 AIDSの施設へ訪問した時、AIDSの子どもたち、そうでない子供たちが同じ環境の中で過ごしていました。ネパールでもAIDSのイメージは悪く、理解も薄いようでした。政府が手助けをしてくれるのかと思っていたら、そうではなく一般人からの支援で手助けをしてもらっていることを聞いた時は驚きました。AIDSを広げないため、進行させないため個人的なサポートだけでなく、組織的なサポートがネパールには必要なのかと思いました。  ネパールの子どもたちは言葉が通じると、とてもにこやかで人懐こく感じました。それは日本人もそうなのかもしれませんが、私たちの片言のネパール語に反応してくれたり、「ナマステ」のあいさつをすれ違う人が返してくれたり、素敵な民族だと感じました。  しかし、街の中をみているとたくさんのゴミがあり、清掃はされていない状況にありました。だれもしないのだろうか?ネパール人ですら鼻をつまんで歩いている様子を見ると不思議に感じました。市民はそのゴミを自分たちでどうにかしようとしないのか。 短い期間しかネパールに滞在できず、どのくらいネパールを知ることができたのかはわかりませんが、私たちに何ができるか考えさせられました。   

2009年7月1日
タイ体験隊

菊地誠悦
SEIETSU KIKUCHI

MIAAサポーター:自営業
溶接技師

 タイの車いすの修理を学ぶナンスクールでタイの現地協力者に技術を伝えるべく、7月1日から5日の期間でタイへ渡航してまいりました。以前聞いていた新しく建てられた建物はなかなか綺麗で立派なものでした。その中には1カ月ほど前に宮城国際支援の会メンバーと共に宮城県内各地から回収し、コンテナに積み込んだ車いすが整然と並べてありました。 まだコンテナから出して並べられただけなので、修理を必要としている物もそのままの状態ではありましたが、現地スタッフが現地で調達した、溶接機、切断カッター、そしてコンテナと共に送った道具などがそろっておりました。

溶接機が思ったより小型で大丈夫かな?と思いましたが集めた鉄の残材を試しに溶接してみたところ問題なく溶接することができました。通常日本では一般家庭では100ボルト、工場などでは溶接機など200ボルトですが、タイでは一般家庭でも200ボルトとのことだったので電源は確保できると思いますが、同時に試した切断カッターを延長コードで使用したとき、日本と同じ要領で使用してしまったせいか、プラグを完全に差し込まなかったせいか、延長コードの差し込みが焼けてし
まいました。今後は十分に電圧に耐えられる線の太いドラムコードが必要になると思いました。切断カッターは置いて使用するやや大きめのものだけだったので、今後、車いす本体を切断したり、削ったり、溶接箇所を仕上げたりするのに手持ちのサンダーは必要になると思いました。また簡単なボール盤もあったら非常に有効だと思いました。私も車いすの修理をしたことはないので、その他どのような物があれば便利なのかわかりませんが、以上の物がそろえば修理はできるのではないかと感じました。   現地スタッフに溶接を指導したところ、初めてにもかかわらず、簡単な素材でしたがうまく溶接することができました。車いすのパイプ(肉厚が薄いものが多い)をうまく溶接できるようになるのはすぐには難しいと思いますが、何度も練習しているうちに技術は習得できると思います。今後修理をしていく中でこのような場合、どう直すのか?どう加工すればいいのか?など問題が出てきた場合、可能な限り写真やメールを使用してアドバイスできればと思います。日本から送られた車いすがタイの地で必要としている人々の役にたてるよう、またタイの生徒たちが修理技術を習得されることを心より願います。

2009年5月20日
タイ.ネパール体験隊
高橋幸恵
YUKIE TAKAHASHI


MIAAサポーター:教員
学校法人北杜学園 
仙台医療技術専門学校
作業療法学科教員








はじめに
「自分の行っている授業にもっと現実味を持たせたいし、深みを持たせたい。それってたぶん日本にいて本を読んでるだけじゃ分からないし、出来ないな。」 そういう気持ちを持ち始めていた時に、運よく今回の渡航に参加させていただくことが出来ました。
自分が普段携わっているのはリハビリテーションの専門学校での教育と訪問リハビリという現場での活動です。
日本の狭い地域のことだけがわかっても、他国を知らなければ比較もできない。 自分達、専門職が何をすべきで何が必要なのかを学生に考えてもらうにはまず、自分が知り伝えなければという気持ちをもって参加させていただきました。 視点など偏っている部分はあるかと思いますが、以下に記します。

タイ ナンスクールにて
タイでの初日はナンスクールでの会議に同行させていただきました。
以前から事業内容や経緯等は伺っておりましたが、実際に現地で建物を拝見し、詳細な内容を知ることができ、色々と考えることができました。
回収され、送られた車椅子を生徒さんが修理するということはとても素晴らしいことだと思います。
修理を通して、車椅子を必要としている人達の存在や背景を考えることが出来るのではないでしょうか?特に子どもは、大人と違って考えをめぐらせることが出来ますので、意図しなくても感じ取れるものが幾つもあるように思えてなりません。実際に生徒さんたちにもお会いして話を聞いてみたいなと思いました。
すでに置いてある車椅子も見ることが出来ましたが、それらを見ていてひとつ疑問がありました。 修理後に行き先を決定するそうですが、その決定はどのようにしているのでしょうか? 車椅子の種類は数限りなくあり、中には特定の疾患の子どもが乗るタイプの車椅子もありました。私達が車椅子を考える際に一番重要視するところです。 会議の中でオーダーメイドの車椅子のお話も出ていましたが、オーダーメイド以前に出来る調整や判定が幾つもあります。それらはされているのかなとふと疑問に感じました。 体の傾きを抑えるクッションや褥そう予防のマットなどです。
日本と違ってタイにはIBRの難しさとCBRに成らざるを得ない状況があるかと思います。 それは、会議に参加されていたDPIのサワラックさんのお話を聞いていても感じました。 障がい者の方々が自身でコミュニティの中で生活に基づいた情報を共有する形の中に車椅子のさらなる技術がふくまれていても良いのではないかと思いました。

ネパール カトマンズにて

ネパールに着き、カトマンズ市内を走っている車中の中から町をみた感想は。ああここには私は住めないし、まして自分の娘なんかは絶対にすまわせないだろうなというのが正直な感想でした。そう思った一番の理由は大気の悪さ、雑踏といえばまだ聞こえは良いかもしれないけれどもどこに新鮮な空気があるのだろうかと思うぐらい車や人が通るたびに粉塵が巻き上がって、息が出来ません。
その一方で人々の活気ある様子も見ることが出来ました。 マンパワーという面では力のある国であるように感じます。仙台の日中のアーケードは高齢者が目立ちますがネパールでは朝から晩まで若い人たちの活気にあふれていました。 ネパールという国の背景をほとんど知る事もなく渡航してしまいましたが、国の背景を推察することが出来たように思います。

マハカリ中学校にて

舗装された道路から悪路を抜け、小高い山の上にある学校でした。 ここまで、生徒さんはどのくらい時間をかけて通学するのだろうか・・登山の感覚に近いなと感じました。
学校の中は使用されているのか分からないほど土っぽいところもあり、初めてみる現状に驚いたような納得したような気持ちになりました。
屋根と壁の間には満遍なく隙間があり、雨が降れば中に入ってきてしまうような作りです。 先生方の部屋も見させていただきましたが、書類や教科書も少なく、必要最低限のもので授業がなされていることが分かります。子どもの心をはぐくむような絵本や物語は読むことが出来ないのかな・・とこのときは思いました。けれども必要なものの優先順位から考えれば、なくて当然なのでしょう。この辺りから支援ってなんだろう?何が優先されるべきものなのだろうと思いながら同行させていただいておりました。

カガチ村にて
今回の渡航の中で一番心が動いていたのがこの場所になります。 ショックが大きすぎてここでは1枚も写真を撮っていないことに帰国してから気づきました。
子ども達はとてもいい表情でカメラを向けると笑っている子もいたのですが、シャッターを切るにいたりませんでした。 色々と聞いて予想はしていったものの、衣服の粗末さや教室の暗さ・狭さ、食事の現状をみているとどんどん暗い気持ちになって行くのが自分でも分かりました。 町でみた物乞いをする子供も、働いている子供も、村で勉強している子供もうちの娘もみんな同じ子どもです。
けれどもその子ども達の背景にあるものが異なりすぎる事と、それが分かった上での自分の無力さに気持ちが締め付けられました。
そんな気持ちの中でビスケットの配布を手伝わせていただき、ありがとうと言われるたびにもっと自分に出来ることはないのだろうかという漠然とした思いが込みあげてくるのを感じました。 教室の中は長机、長椅子にびっちりくっついて一人の勉強スペースはとても狭く、そして薄暗く。 子ども達の体型にあった机であるわけもなく。 そんな中でも一生懸命ノートをとる姿が印象的でした。 子ども達の学びたいという気持ちが強いことに希望が見えるような気がします。
また、村の中を歩いている際に裸の女の子に会いました。 服が一着しかなくて洗ってる間は裸。と聞きました。 もうこの辺りから私の気持ちは折れそうでした。海外に行きたいって自分から言うくせに現状を知りたいという気持ちで行ったのに気持ちが折れそうでした。もううちの部屋にある服全部持ってきて着せたいようなそういう普通のおばちゃんのような考えしか頭をよぎりませんでした。
そんな自分にへこみながらも、でも世の中の大半の人が高いボランティア精神やら知識やらを持たないわけで、実は日本における狭い範囲のコミュニティなんかはこういう気持ちの集合体であるような気がします。 よく言われる地球をひとつの村として考えるならば、私のこういう気持ちもありなのではないかなと思いました。
希望・・・カガチ村のこの子ども達の希望ってなんなのでしょうか? 私達リハビリ技術者が支援という視点で物事を見るときにはその本人達のNeeds,desire,demand,hopeを考慮して目標設定をし、プログラムを立案します。 必要性、欲求、要求、希望と訳しどれかに偏ることなく考慮し関わっていくことが望ましいものです。
カガチ村の子ども達はこれから勉強をしていって、何をしたいという希望や欲求が出てきてそれに対する受け皿はあるのでしょうか?そしてその必要性を正しく導く社会があるのでしょうか?希望をもち続けていられるのでしょうか? 村の中を見ながら、もっともっとコミュニティ自体が力をつけていく必要性を感じました。 そしてそれらは、診療所や給食サービス、先生の派遣等を通して支援を子なっているMIAAの皆さんや現地の方の努力によって導かれている様に感じました。

車椅子贈呈式にて
車椅子贈呈を見学させていただきました。 気になったのは車椅子の形状です。
こちらに戻ってきてからもなぜその形でなぜその素材である必要性があるのか考えていましたが、分からない部分が多いです。 日本であの形の車椅子を障がい者の方に提供することはまず100パーセントありません。

(以下、口語で感想を言わせていただきます)
1)自操するには後ろにつきすぎている車輪で
2)背中から臀部にかけての斜めのラインとプラスチック素材は長く座っていると体に良くなく
3)プラスチックなのでたぶんクッションひいたら余計滑るし
4)はめ込んである車椅子の足の部分で立ち上がりはしにくくなりますし
5)介助用?と考えると今度は後方の介助バーは力が入りづらい形状で
6)車椅子のブレーキも介助者からも本人からも遠い位置についてて
7)段差超えるための形していないし
8)乗る人と乗れる場所がひどく限定されるでしょと
・・・・こんな事書くのは感じわるいなと自分でも思いますが、そういう特徴の車椅子でした。驚きました。
人が乗るというよりは、ものを運ぶ感じのイメージを強く感じてしまいます。 しかし、日本から見てそういう特徴の車椅子であっても、ネパールには必要だという現状をその前後に町や村をみて理解出来ました。障がい者やリハビリテーションのことを考えていく際に車椅子というのは分かりやすく、導入しやすい象徴でありその後の支援のベースになっていくことの出来るものなのだと感じます。

おわりに
今回の渡航においては、MIAAの皆さんが長年時間をかけて支援をしてきたものを通して各国の現状と問題点、課題について知ることができました。
そして勝手ながら自分の目標としていたところを知ることが出来ました。 帰国後、自分の目標達成の確認のために授業の中で渡航で経験したことを学生に話をする機会を作ってみたのですが・・私の予想を超える反響で予定していた授業がつぶれてしまうほどでした。今、帳尻あわせに苦労しています。
また、同様に同じ職種の方々や友人にも話をする機会がありその反響の大きさに驚いているところです。 思うにみんな興味ははじめからもっているのですね。 ただ、そういったところに関わろうと思うと大きな団体に属して長い期間派遣されるもののイメージが強く関わりづらさをイメージしてしまいます。 現に私もMIAAの存在を知り活動に興味を持つまではやNPO、NGOが何をしているのかなんてしらない世界でした。
今後も微力ながらもサポーターとしてお手伝いできるところには参加させていただきたいと考えております。
今回このような機会を与えていただき、本当にありがとうございました。

2008年2月8日
ネパールカガチ村体験隊
三塚久義
HISAYOSHI MITSUZUKA

MIAAサポーター:自営業
 
2月、雪が舞う厳寒の日本より、日中30度近いタイを経由して、ネパールへ。地球の大きさを感じながら、降り立ったトリブヴァン国際空港は春の陽気だった。行く前は、寒いのかなと思っていたが、考えて見れば緯度的には奄美諸島と同緯度である。プロ野球のキャンプが行われる時期に日本の南国に来たのと同じである。  
 空港を出ると、スクンダのメンバーが、出迎えに来てくれていた。真っ先に無言のまま抱き合い、お互いを称え合う男二人。相手は7年ぶりに逢う、テクさんである。2001年にスクンダのメンバーが、塩釜に来たときに、私は塩釜JCの理事長、テクさんはスクンダの会長としてお会いした間柄で今回の再会となった。当時、必ずネパールに行くと約束したが、7年かかって果たせた男の約束、感無量でした。メンバーの皆さんと再会の喜びを分かち合いながら、今回の行程のミーティング済ませ、カトマンドゥ市内へ。乾期だからなのか、土埃が舞う道路を進む。人、車、バイク、自転車、ごちゃごちゃだ。この国の交通ルールは、とにかく前に進むだけかと思うほどであった。出発前に観た、映画「三丁目の夕日」のごちゃごちゃがパワーアップした感じである。ノスタルジックより先に、エネルギッシュを感じた光景であった。  
 カガチ村へは、明後日行くことになり、その間は、スクンダメンバーのラマンさんのお姉さん宅にホームステイしました。身振り手振り、片言の英語でコミュニケーションを取りながらも有意義な時を過ごす。辛いのが苦手でしたが、美味しくいただいたネパールの家庭料理、停電続きでロウソクの灯りを頼りにする生活、ニワトリの鳴き声で起こされる朝。日本では非日常になりつつあることが、ネパールでは日常なのかもしれないと考える。  
 カガチ村へ行く当日は、遠くヒマラヤ山脈も見えるほどの快晴で心が躍る。ワゴン車に、スクンダメンバー数人と乗り込み、カトマンドゥ市内を出る。カトマンドゥ盆地を抜けると辺りの景色は変化し、山を切り開いた段々畑が連なる。険しい山間地帯でも人々は生活しているだなぁと物思いにふける間もなく、カガチ村に到着。以前は車から降りて、徒歩で山道を進んで行ったらしいが、カガチ村の麓にゴミ処理場ができ、そこまでの道路が整備されたため車でも行けるようになったらしい。  
 村の子供達に囲まれながら、坂道を登り診療所へ。ふと「Drコトー」を思い出させる、そんな建物であった。診療所内部は様々な設備も揃えられており、これまでのMIAAの功績がうかがい知れる。ちゃんと受付もあり、患者の症状を記入してドクターに渡していました。ドクターは、コトー先生みたいなシャイな方かと勝手に想像したが、昨日までエベレストに行ってたみたいな、ガッシリとした方でした。ある意味、すごく頼れる先生の様です。  
 一通り見学も済んだ頃、村の方々へ給食を配りました。オレンジ、バナナ、ビスケットを一人一人へ。「ナマステ」と声をかけながら、ちゃんと食べてくださいねと心に思い渡しました。嬉しそうな顔を見ると、こっちまで朗らかになってきます。不思議な力ですね笑顔は。配布終了後、診療所の水源視察へ。急勾配な山道を進み、湧き水の出るところへ、たどり着く。山の高低差を利用して、水を供給している。配管するだけでも、かなりの距離であり、工事の大変さを思い知る。来た道を引き返し学校へ。  
 学校では、子供達が校舎から出て待っていてくれた。歓迎のレイをかけられ、恥ずかしい気分になったが、「ナマステ」と声をかけあう。各教室をまわり、用意してきた給食とノートを手渡す。子供達の嬉しそうな顔に、配布する疲れも飛んでいきます。  教室は照明もなく、暗がりの中で学習しており、環境的な問題もあるかと思いますが、子供達のノートを見ると文字がびっしり。向学心のあらわれであり、徐々にではあるが、この村が良くなっていく気がした。そう願いたい。  
 教室をあとにし、先生方から現状をレクチャーいただた。今後はさらに上級の学校を目指してがんばっているようだ。村のためにも是非実現して欲しいと思う。学校を出て、村を出るため車へむかう。学校にいた子供達も、帰宅の時間で、はしゃぎながら歩いている。学校にいるときと違う一面も見て、なぜかほっとする。勉強も大事だけど、友達と遊ぶのも大事だと思ったからかな。村の人のお見送りの中、車は進み、麓のゴミ処理場へ向かった。  
 ゴミ処理場といっても、埋め立ての処分場であり、異臭漂う場所でした。離れた所には小川が流れており、水源利用されてないのか心配です。カトマンドゥ市内は人も増え、それに伴いゴミも増加してるらしい。環境問題もいずれというか、早急に取り組まなければないない課題だと感じた。市内へ戻る際、酔っぱらいの群衆に道路封鎖されるハプニングもありましたが、無事帰りました。  
 滞在中、スクンダで取り組んでいる様々な事業を見学させていただきました。車いすの贈呈事業、山奥の村へのヘルスキャンプ、学校施設の整備事業などです。多彩な事業で、メンバーの方々には敬服するばかりです。ネパールの明るい未来づくりに活動している姿を見て、これから自分に何ができるか、改めて考えさせられた旅でした。  
 貴重な体験の場を提供していただいたMIAAに感謝いたします。

2008年1月7日寄稿

松本匡平
MASAHIRA MATSUMOTO

2005年渡航:現、私立高校
国語科教諭
 2005年11月にカガチ村支援に特別参加いたしました、松本です。
さて、MIAAのホームページを久しぶりに拝読いたしました。
新たな報告を細かな部分まで詳細に書かれており、劣悪な環境が こどもたちに覆いかぶさっている現実がまざまざと目の前に浮かび、私が行ったときのことを思い出していました。年季の入った服で、はだしで、狭い暗い教室で、でも一生懸命に勉強する姿、あのまっすぐな眼差し。かけがえのない交流でした。
 あの子達にとって、学校での勉強は、「生きていくためのもの」であると同時に、「教育のための教育」と言ってよいでしょう。教育こそが、カガチ村のこどもたちにとって未知の世界に出会える唯一の手段なのですね。知らなくても生きてはいける。でも、彼らは世界を知ることを欲しているように思います。これがある意味での純粋な教育であると思うのです。その活動を支援していくことは、こども達とカガチ村、大きく言えばネパールの、そして世界のためになることだと改めて実感しました。
 現代は情報の渦巻く社会で、IT社会に突入した日本を含めた先進国では、寝ても起きても「受動的」に情報は受け取れます。しかし、能動的にこちらから何かを掴み取ろうとする努力を、我々は忘れているように思えます。
カガチ村の子供たちは、その曇りない眼で、少ない情報を、徹底的に学び取ろうとしているのでしょう。泥のついた書き込みの多い教科書・・・。不謹慎ですが、彼らのような教科書は、ある意味でうらやましいことです。私の奉職する学校でも、綺麗なままの教科書、あるいは手荒に扱ってぼろぼろになってしまった教科書、あるいは持ち主不明の教科書やプリントなどが目に付くことが現状です。悲しい話です。
 いかにして学問が楽しく面白いものになるのか。どうすれば学ぼうとする姿勢が身につくのか。私もまだまだ暗中模索の状態です。しかし、カガチ村の人々の姿勢は、一つのヒントであると思います。そしてこのような姿勢をさらに継続し、次なるステップへとつなげるには、さらなる支援が必要でしょう。
 またこのような報告を楽しみにしております。
MIAAの皆様のこれからのますますのご活躍と、カガチ村の将来がさらに発展することを祈念いたしまして、失礼いたします。

2007年10月31日
ネパールカガチ村体験隊
鈴木 郁子
IKUKO SUZUKI

MIAA事務局員:会社員
 10月31日、成田からバンコクを経由し、翌日カトマンズに降り立った。あいにく、ヒマラヤには雲がかかっていたが、日差しは強く、汗ばむほどである。バンコクからの機内は満席にも関わらず、空港内の大型航空機は、私たちが乗ってきた機材以外にはない。ターミナルの中は、ここが国際空港か?と、目を疑うほど小さく、暗く、古びている。職員の数も少ないので、入国ゲートは長蛇の列である。空港を出ると、スクンダのメンバーが出迎えてくれた。
空港を出て、路上に出ると、驚きの連続である。なにしろ、走行する車のほとんどが、走っているのが不思議なほど古くさび付いた車体ばかりで、中には、フロントガラスがなくても平気で走っている。ガラスの代わりに、ビニールをガムテープ貼っている車まである。バスのボンネットの上には、沢山の人が座ったまま走っていて、非常に危険だ。道幅は、国道といえども、非常に狭く、でこぼこしている。路肩は土なので、土埃が舞い上がる。その路肩には、ごみが散乱している。何にしても、秩序が存在するのか?不思議である。何度か、国連の車両を目にした。それだけ、支援の必要な国であることを実感した。
 牛を敬う国ということもあり、野放しの牛が路上を行き交う。車が牛をよけて走っている状況である。牛を食することはないので、もちろん、マクドナルドはない。といっても、外資の外食産業は何もなく、コンビニも見当たらない。
 道路沿いには、個人商店や露店のようなものは多数あるが、工場のようなものや大きな企業は見つけることができない。ひなたぼっこをしている大人が多く見受けられた。
露店の4歳の少女。 学校帰りの子供達。カトマンズ郊外
 初日、バグダプルなどの世界遺産を訪れることができた。300年も昔の建造物や町並みが残っている。欧米人の観光客も多い。しかし、物乞いも多い。キャンディを求める子供達は、粗末なみなりをしており、時間的にも学校に行っていないようだ。子供を抱えて、商店の中にまで入って食べ物を求める女性や、身振り手振りで懇願する老婆もいた。また、観光地でさえ、ごみがあちこちに落ちているのは本当に残念である。
 ホテルまでの途中、丘の上で車を止めた。すると、学校帰りの子供が、英語で話しかけてきた。聞けば、9歳の少女であった。子供の数がどんどん増えてくる。ネパールは、早い段階から英語教育に熱心で、義務教育後は会話ができるレベルであるという。わが国の子供達のレベルからすれば羨ましい限りであるが、英語が話せなければ、仕事に就けないから、母国語より力を入れるのだという。しかし、優秀な人物はネパールで職に就くことなく、海外で活躍し富を得るものも少なくないらしい。それだけ、この国には働き口もなく、賃金も安いということである。「日本人は、日本語だけで就職できるのだからいいですよ」と、言われたのが印象的だった。ちなみに、就職の人気度は、公務員や銀行員より軍人。欧米の軍隊に高額で雇われ、厳しい任務にあたり、死んでいく者も多いという。貧しさゆえの何とも悲しい現実である。
 ネパール初日、ナガルコットに宿泊するも、そこから見えるという見事なヒマラヤに出会うことは出来なかった。世界的な異常気象は、ネパールでも例外ではなく、ここ2年ほど雨が以前より降らないので、雲が切れずに山がよく見えないことが多いらしい。  ホテルでは、夜6時頃から1時間ほど節電のための停電があり、ろうそく1本で過ごした。何とも不気味である。停電といえば、その後もカトマンズの銀座?といわれるニューロードでも、一時的に2回ほど体験することになる。
 ネパール4日目、カトマンズの中心部を経てカガチ村に向かう。中心部のタメル地区は、人が多く行き交い、商店や飲食業が軒を連ねる。ネパールのお土産などを売る店も多い。
 村へ行くには、四駆のワゴン車で山道を登り、谷に向かって下る。道路は途中までアスファルト化していたので、思ったより苦痛はなく、窓から見る景色は、何とものどかで、この先が楽観的にさえ思えてくる。MIAAが発足した頃は、アスファルトはなく、砂利道やぬかるみをバイクで通ったというから大変な苦労であったと思う。砂利道といい、その素朴さといい、生えている樹木の種類や段々畑を除けば、三十数年前の幼い頃に見た、七ヶ宿へ向かう風景に似ている。砂利道やカーブでも、オートバイの運転手は携帯電話を片手に走っているのだから、信じられない。途中大きなぬかるみに出くわしたが、ワゴン車は難なく走っていくから驚きである。村まで、市内から40分ほどで到着した。その程度の時間で、カトマンズ市民も驚く「忘れられた村」に着くのだから、その先が興味深い。
 車から降りて、まず診療所に向かった。途中、3歳位の幼児や赤ちゃんを抱いたお母さんを見かける。その子たちは皆、ボロボロなTシャツの下の下半身は、丸出しである。下腹は膨れ、膿鼻をたらしている。後で聞くと、貧しくておむつはもちろんないらしい。おそらく、排泄がうまくできない乳幼児は、下着をつけさせて、後で洗う手間などを考えれば、そのままの方が効率的ということだろうか。それ以前に下着やズボンを買う余裕もないのは確かである。これでは、抵抗力のない乳幼児が、風邪をひいたり、下痢をするのは間違いない。
 診療所では、看護師を含め3人のスタッフが迎えてくれ、村の様子について質問を試みた。私としては、MIAAのホームページ作成という仕事柄、村についていろいろと会長から聞いてはいたが、以前から周産期については是非聞いてみたいと思っていた。カガチ村の妊婦は、出産ぎりぎりまで農作業に携わるが、そのまま畑のすみで生んでしまうこともよくあるという。産湯につかわせることもなく、産婦自身がふいて赤ちゃんに油を塗るのだという。栄養障害により、母乳がでるのか不思議であったが、稀にヤギの乳を飲ませることはあっても、何とか朝晩2回、母乳を飲ませてから畑に出るのだという。昼間は泣いても、そのまま或いは祖母が自身の母乳を飲ませることがあるという。祖母といえども、出産してそれほど経過していない女性もまれではなく、その場合、孫に母乳を与えることも可能らしい。乳幼児の死亡率は高く、原因は栄養失調による下痢や風邪が多いという。数年前まで、下痢の際の水分補給はタブーというような、迷信があり、致死につながったが、診療所ができてからは、ワークショップや保健師の巡回指導により随分改善されてきているという。診療所は、病気の治療だけではなく、病気予防や家族計画の指導にも随分大きな役割を果たしているようである。
 診療所をでて、学校に向かった。幅50cmもないような、道とは言いがたい急勾配を登る。大雨でも降れば、流されてしまいそうな土の上に、石もゴロゴロしていて、非常に危険である。そんな場所に一世帯15人も住むという、土壁でできた粗末な家が点在する。時間的に老婆と乳幼児が日向ぼっこをしている様子で、幼児は相変わらずお尻丸出しで、ボロボロな服を着ている。お菓子をあげても、まるで無表情である。  
かなりの急勾配 バナナを配る。 地理?の教科書
 学校に着くと、授業中であった。教室といっても、非常に暗い。しかし、「ナマステ」と元気な声で挨拶を返してくれる。ほどなく、次から次へと教室をまわり、給食を手渡していく。結構な忙しさである。給食を受け取っても無表情な子どもが多いが、はにかんでいるのだという。最近のCMに、ビスケットが学校に通わせる手段になる旨のものがあるが、まさにこれである。この月2回の給食配布により、子どもたちが学校に通うようになり、教育を受け、今や中学を増設するほどの人数に増えたのだという。通常は、昼食をとるという習慣はないし、食べるものも朝晩の野菜とご飯だけらしい。どの子も目は大きく輝いてはいるが、手足は細く小枝のようである。青いスクールシャツを着ているが、あまりの粗末さに、1着しかないというのが見てとれる。汚れているだけではなく、穴も空いている。12歳くらいの少年のズボンは、お尻の所に穴がいくつか空いていて、肌が見えているのだから、下着もつけていないようである。はきものもサンダル履きか、はだしの子どもも多い。カトマンズに住むアショク氏の愛娘シルバちゃん(11歳)も、この様子に非常に驚いていたと聞く。私としても想像以上であった。まさに「百聞は一見にしかず」である。
 帰り際に、希望して9歳の少女に教科書を見せてもらった。ぼろぼろのリュックサックに英語だけで2冊とネワール語、算数、社会などの教科書が入っている。教科書は全てボロボロで、ホチキスで補修してある。めくる度に、土埃でザラザラしている。英語の教科書は、日本の中学2年レベルまでも含まれ、英語で質問に答えてくれる。ネパールの収穫作物分布図?の内容がノートに記されていた。ネパールの地図上でどの辺に住んでいるのかも理解しているようだ。練習問題も解いてあり、ノートもとっていて、暗い中でも熱心に勉強しているのがわかる。 この村はまだまだ発展途上ではあるが、この子どもたちが大人になる頃には、また随分違ってくるのではないだろうか?彼らが学ぼうとする姿勢があれば、より未来は明るいと確信した。それでも、まだまだ支援が必要であることに間違いないのは言うまでもない。
 ネパール最後の晩、スクンダのメンバーがパーティーを開いてくれた。私は、アショク夫人にネパールの民族衣装とブレスレットをプレゼントされ、着せてもらった。陽気なメンバー達と親切なアショク氏一家と共に、片言ででも一人一人と言葉を交わし、懇親を深めることができ、非常に有意義な時間であった。その歓迎ぶりに、改めてMIAAのネパールへの貢献を認識した。
 話の中で、これからネパールがよくなる為には、国が安定すること、公務員などの利権や賄賂をなくすこと、国民の美化意識向上などがあるという。後に知ることとなったが、折りしもこの晩、ネパールの王室廃止がほぼ決まり、19日の議会でネパールの選挙日程が決まることとなったようだ。とにかく、早急に武力を鎮圧し、国が安定し、近い将来ネパールが貧しさから脱却する日が来ることを願ってやまない。
「世界がもし100人の村だったら」 による
いろいろな人がいるこの村では、
あなたとはちがう人を理解すること、
相手をあるがままに受け入れること、
そしてなにより、そういうことを知ることが大切です。
村に住む人々の100人のうち、
20人は栄養が十分ではなく、
1人は死にそうなほどです。
でも15人は太りすぎです。 ・・・・・・・・・・・・・・・

  帰国後、この文を読み返し、自分の貴重な体験と重ね合わせ、再認識した。 私は64/100の中の1人であることに幸福を感じなければならない。だからといって、「自分自身何ができるか?」と問われたら、情けない話だが答えに困る。ただ、まずは、事実を伝えることから始めたいと思う。


2007年9月9日
ネパールカガチ村体験隊

渡辺和幸
KAZUYUKI WATANABE

MIAAサポーター:建築業
 タイ車椅子施設建設計画調査報告書
今回、鈴木信会長と世界的に活動している組織のアジア本部、Disabled Peoples International Asia Pacific Region(DPI)を訪問した。DPIの会長は女性の方で本人も傷害を持っているようで車椅子に乗っていた。名前はSaowalak Thngkung(サワラク会長・車椅子に乗っている女性)だった。 次にナンスクールという学校へ出向いた。生徒数1000名を超える大きな学校で、校長先生は女性の先生だった。
車椅子の修理は、ナンスクールで行われており、場所もないため学校の軒下に部材をおいているが、洪水の時は、すべて水に濡れてしまうといっていた。 タイの学校を訪問したのは始めてなので、すべてが新鮮に感じられた。  学校の先生方には大歓迎され、川辺のレストランで夕食をご馳走になった。非常に明るい先生方で、デザートまでご馳走になってしまった。
 このナンスクールは、中学校1年生〜中学校6年生までの、6学年が学ぶ学校で日本でいう高校の役割もすると教えてもらった。

ネパール事業報告  
カトマンズでは選挙があったが、治安が不安定なようで、場所によっては危険な場所もあるようであった。我々が行った前日には、民間のバスの爆破事件があり、数名の民間人が死亡したといっていた。これによりまた、貯める地域の観光客が少なくなったようである。街中にはゴミが山済みになっており、回収の団体がうまく機能していないらしく、汚い場所がめだった。カトマンズでは始めに銀行へ行った。ネパールの銀行へは始めていった。  ウッタム氏の事務所での会議では、ネパールの電気事情が悪く停電が多く、仕事になえらないという日もあるという。  マオイストの話では、殺人こそしないが、かなり悪く街の銅像を破壊したり、かなり凶悪なグループも多いという。    
  カガチ村へ向かう途中では、ガソリンスタンドへ並ぶ車で大渋滞で、なかなか進めなかった。 前回の渡航と比較すると、村民の服装もよくなったような感じがするし、全体的に生活水準も上がったような感じに受け止められた。     ワークショップの開催後、一緒に大人への給食を配布した。  機材も今回の支援でかなり充実したようで、いい診療所になったと感じた。  学校へ訪問して感じたことは、MIAAのDVDなどで見た時よりもかなり生徒数が増えたような感じで教室にたくさんの生徒がいた。


2006年10月3日
ネパールカガチ村体験隊

渡辺和幸
KAZUYUKI WATANABE

一般参加:建築業
  はじめまして今回カガチ村(ネパール)初訪問の渡部です。出発前のレクチャーで、かなり脅かされていた私は、現地へ到着するまではアフリカの荒野のイメージで覚悟を決めていましたが、カトマンズ空港へ降り立った時は風景を見てまずは一安心しました。  ライオンズスクンダの方のお迎えでホテルへ出発したのは良かったのですが、交通渋滞というか、車にバイク、人、牛がクラクションの中よく喧嘩にもならず進めるものだと感心した半面、かなりストレスがたまりました。その後メンバーの方とホテルのロビーで打合せと懇談。この時、日頃気にしたことがなかった言葉の壁!皆さん日本語が上手で、その時は少し勉強しようと思いました(過去形)。
 さて、翌日好天の中カガチ村に出発です!気候もよく思った以上に過ごしやすい気候で、ドライブ気分、しかし日本で言えば軽ワゴンに約十人乗車で山を登れるのか少し不安?しかし途中での風景は眺めもよく、30年くらい前の、私の福島の田舎へ帰省するときに少し似た感じで、なにか懐かしい気分になりました。
 車を降りて診療所へ。しかしその道は結構きつい坂道で足場もかなりわるく、お年寄りや体の不自由な人はどのようにして移動するのか不思議でした。途中には補助で建設した校舎?が有りましたが、お金が不足して建設途中のものも有りました。どうせなら完成できるぐらいの計画的な補助をすれば良いのに、ただお金だけを預けるのも無責任なやり方で、結局素人の村人が見様見まねで型枠を組んで棒で押さえている無用の長物になってしまっているのを見るとすごくもったいない気がしてなりません。今回は残念ながら同行できなかった建築の専門である安信工業の轟木社長がいれば、良い提案が出来たのではと、残念でした。轟木社長の夢である学校建築の夢を是非ここで活かせるのではないでしょうか。   
 又この写真を見て分かるとおり、ここに限らず効率の悪い施工の仕方も多々あるかと思います。

はじめてのネパールで、診療所での給食配布は、考える間もなくあっというまに、終わってしまいましたが、非常によき経験になりました。 なかなか国際貢献ということは難しいかと感じましたが、今後、できることは協力して行きたいと思います。

2005年11月7日
ネパールカガチ村体験隊

遠藤博幸

HIROYUKI ENDO


撮影記録特別スタッフ
塩竃JC所属:会社員
  11月だというのにその日は暖かな日差しで、少し動くと汗ばむほどの陽気で、ここが標高1350mもあるカトマンズ・トリブバン国際空港とは思えなかった。ヒマラヤ山脈が綺麗に見渡せエベレストが一目でわかる。後で現地の人に聞くとここまで見えることはかなり運がいいそうで、今回の体験がすばらしいものになる予感に胸を膨らませた。  翌朝、私たちはホテルを出ると一時間弱、クラクションと無秩序な交差のなか埃を巻き上げながら目的地であるカガチ村に向かった。  カトマンズ盆地を抜けると風景が一変する。高地特有のまばらな緑の山の斜面がすべて段々畑になっている。日本のものより段が大きく、いかに急斜面を耕作しているかがうかがえる。このあたりは稲作と麦の二毛作だそうで稲作が終わり、昔ながらに牛を使って畑をたがやしていた。
  村に着くとダサイン祭で使かわれたブランコのための大きな竹のやぐらが、私たちを迎えてくれた。急な坂道を徒歩でのぼり支援で建てられた診療所へ向かう。途中にある石を積み、赤土で塗り上げた家々がこの村の貧しさを物語っていた。電気もなく、水道も一日に数時間だけしか水がでないとのことであった。
 到着すると地元の小学生の歓迎で揉みクシャにされた。早速ワークショップが開始され医師からこの貧しい村はでは基本的な公衆衛生が必要だということ、またそれを村人に理解してもらうことの大切さを教わった。医師より村人へのレクチャー、公衆衛生に関する映画の上映、学校給食、簡単な日本語の授業など多くが行われていった。
  私の役目はこれらを映像に記録することである。美しい自然とは対照的に、ファインダー越しに見る斜面に暮らす人達は、やはり貧しく淋しげであった。ぼんやり遠くを見つづける老人。重たそうな荷物を、帯の様なものを使い頭で担ぐ女たちがゆっくり登っていく。
  ところが学校に行き子供たちを撮影すると、後ろには子供たちが常に集まってき交代でモニターを覗き込みはしゃいでいる。おそらく「何々ちゃんが映てるぞ」とでも話しているのだろう。こうしたところは日本の子供たちと何ら変わらない。吸い込まれそうな子供たちの目にきれいな青空が映っている。底抜けに明るく跳ね回る彼等を見ていると今よりも、明日への希望を何故か期待してしまう。
 これも村を支援しつづけている宮城国際支援の会と、現地ネパール・ライオンズクラブ・カトマンドゥ ・スクンダの皆さんの地道な努力があればこそなのだと痛感させられた。人間が人間らしく生きるためには平坦な道のりだけではない。今回私が見てきたことが微弱ながらもより多くの人に伝わり皆さんの一助になれば幸いである

2005年11月7日
ネパールカガチ村体験隊

松本匡平
MASAHIRA MATSUMOTO

特別スタッフ:東北大教育学部教育社会学専攻
  カトマンズから車で1時間弱の場所に、カガチ村はある。ネパールの地図を購入して探したが見つからない。地図にも載っていないその村は、だんだん畑が広がり、山肌に家が点在するところで、米の収穫も終え、冬に向けて小麦を植えようとしている、そんな場所であった。青空が深く広がる場所で、第一印象は、綺麗だなという、きわめて日本人的な発想から始まった。
 まず村の診療所に向かったのだが、その診療所の手前の坂では、小学校の子ども達が花で作ってくれた輪を用意してくれていて、我々が通るたびに首にかけてくれた。この大歓迎振りに、私は、この村を今まで支援してきた人々に改めて感動と敬意の念を覚えた。子ども達はどの子も純粋な目をしており、当初よりも楽観的な考えにさえなるほどであった。
 しかし、診療所にて、まずドクターの話を聞いたり、映画の上映の準備中に、周りの村人らの話を聞くと、まだまだ支援の手は必要で、成果は上がっているものの、もっと支援を続けなければ、この子ども達や村人がよりよい生活をするにはまだ道のりが険しいものであることを再確認した。その一例としていいかわからないが、体内の色素を生まれながらに生成できないと思われる男の子がいたことを報告したい。おそらく、太陽の光があるところではまぶし過ぎて周りが見えないばかりか、視力もあまりない様子であった。ドクターと話をして、ネパールの支援団体ライオンズクラブ・スクンダのラマンさんとも話をし、今度メガネと帽子を持ってきてくれると言うことになった。当たり前なのだが、どこにでも障害を持ったり先天的な病気を患ったりする子ども達がいるのだ。それをまざまざと見せ付けられた。知識がないことに罪はない。それを見て見ないふりをすることにこそ問題があると、私は思った。
 診療所を後にして、次に学校に向かった。そこで、授業、「簡単な日本語講座」を行った。挨拶の基本である、「こんにちは」「ありがとう」を、ネワール語・英語・日本語の順に黒板に書き、声に出して読んで、ノートに書き付けるという、シンプルなスタイルのものであった。通訳をしてくれたアショクさんとともに進行したが、子ども達の目の輝きが今でも脳から離れない。身を乗り出さんばかりに話を聞いていた姿を見て、どの子にも、学ぼうとする好奇心があるのだということを改めて実感し、この姿勢を大切にしていってほしいと切に思った。ただ、教室内が暗いことと、幾分教室が狭いことが気にかかった。電気や建物の問題はそう簡単には解決できそうもない。でもいつか、この子ども達がより勉強しやすい状態に置かれることを望んでいる。もう一つ印象的だったのは、生徒の中に自分の弟であろう赤ん坊を背負って教室で勉強していた生徒の存在である。どういう事情であるかはわからないが、子どもも労働力の一つとして考えられている一面であると同時に、それでも学校で学びたいという子どもの強い思いの一面でもあるのだろう。学習することの権利は何人も侵されないというどこかの条約の崇高さは認めるが、このような小さな具体例を見ると、理想と現実をいかに近づけるかがものすごく大変であると言うことを実感した。
 その後給食とお菓子を配り、学校を後にし、村の家を突撃レポートした。何よりも衝撃だったのは、家の中の暗さである。昼間でこの暗さで、夜はどうなるのか見当もつかない。それほど広くは無い部屋で、奥のほうが見えない。階段もおぼつかなく、若ければ良さそうなものだが、子どもや高齢者もこのような階段で上り下りするのだろうか。壁は土でできており、地震がくれば倒れそうだ。かまども、家によってはハエがたかっている。やはり不衛生な面を表す一つであろう。そこで印象的だったのは、その家の大黒柱のお父さんであろうか、粟でお酒をつくるということなのだが、嬉しそうに呑むふりを見せてくれた。どの世界でもお酒はひと時の楽しみであるのだなと、共通点が持てたようで嬉しかった。 診療所に戻り、村の大人達にワークショップを開催した。その中で、一つ気になったのは、何かの病気で手足の指がなくなっているおばあさんであった。近寄って行って話を聞くが、方言がきつく、ネパールの方でも通訳困難らしい。でも、その目からは、何かを訴えるものをつよく感じた。感謝の念と、それに加えて、どうにかして欲しいという切なる願いと。私は無力であった。それはそのはずなのだが、何かしてあげられないだろうか、という気持ちが先走る。少しばかりお菓子を多めにあげることしかできなかった。それしか出来ない自分がそこにいた。悔しかった。それでも私に手を合わせてくれるその人を見て、もっと自分にできることとは何かを考えなくてはならないと思った。
 もう一軒の突撃レポートも終え、ごみ処理場を見学した後、帰路につく。このごみ処理場のおかげで、村の交通の便がよくなったことにどこか腑に落ちないものを感じたが、総じて考えれば良かったのだろう。先ほどの小学校の生徒が家に帰るのか、車ですれ違うと、「コンニチワ!」「アリガト!」と、覚えたての日本語で挨拶してくれるではないか!こんなことでは何の解決にもならないのかもしれないが、それでも、感動と、今後継続して支援していく道とは何かを考える元を、私に与えてくれた。思わず私も叫んでいた。「ありがとう!」と。
 もっともっと様々な支援をしていくこと、それも村人達が独自に何かを成し遂げていけるようなものにするには、まだ果てしない道のりなのかもしれない。しかし、今回の映画の上映や、診療所にレントゲン検査機を置くことも大切な一歩である。子ども達の中には、小学校・中学校・高校と進学したいと願う子どももいるそうだ。それらがどのように実現可能か。そのために村人の力がどこまで伸びるのか。問題は山積しているが、今回のカガチ村訪問で、少しでもその足がかりがあったと思えたのは、着実に支援が実を結んでいることの表れであろう。これからもカガチ村が発展していくことを願ってやまない。

2005年11月6日
ネパールカガチ村体験隊

池田亜衣
AI IKEDA


一般参加:大学院生
  カトマンズからカガチ村へは、これでも良くなった、と言われる山道を進みます。緑の中に小さいながら、ぱっと目を引く赤いサリーが見え隠れしていました。カガチ村は斜面に作られており、ちょっと移動するだけでトレッキングになります。村ではまず、小学校に入る前の子どもたちを対象にお菓子を配りました。子どもはもちろん大人までそのお菓子を食べていたのですが、気がつくと袋の中に入っていた乾燥剤まで食べてしまいました。そのくらい貧しく、そして時代から取り残されてしまった村なのだろうと思いました。 診療所にはたくさんの村の人たちが集まっていました。医師はその日、石鹸についてお話をしているようでした。お話のあと、私は鈴木さんと一緒に石鹸を渡すお手伝いをさせていただきました。石鹸を受け取るときの村の人々の表情は一様でした。照れている、というような表現が適当かはわかりませんが 、私たちと目を合わせることなく、はにかむように笑って受け取られていました。なんだか妙に表情の硬い人もいます。彼らは石鹸に慣れる前に私たちに慣れていないのではないでしょうか。そうした中で石鹸について、こちらの思いはきちんと伝わっているだろうか、ふいに不安になりました。しかし、給食となると話は別です。みなさん張り切って、パン、りんご、ゆで卵を受け取っていました。まずは食べるということ、多くのカガチ村の人々の価値観はそこにあるようでした。だれかを支援するということは本当に難しいことです。ましてや文化習慣の異なる人々を支援するということは、支援する側のものさしだけで図っては良好な関係性を構築できません。どんなにか、より良く生きることを伝えようとしても、相手を尊重した上での活動でなければうまく伝えることは出来ないであろうと思います。鈴木さんを始めとして、宮城国際支援の会、ネパールライオンズのメンバーはそのことを実感されているのだろうと思います。道路が良くなった、村の斜面が雨で崩れないように石が積まれている、牛を飼うようになっている、数年前よりも私たちの言うことに耳を貸してくれる…。何か少しでも、小さな芽が出てくれればいい、切実で根気強く、優しいまなざしでカガチ村を見つめているように思いました。村からの帰り道、これでも良くなったらしい曲がりくねったでこぼこ道を下りながら、私自身のものさしはどうなっているのか、問われているように感じていました。

2005年9月6日
ネパールカガチ村体験隊

 小沢 恵
MEGUMI OZAWA


一般参加:タイ在住実業家
  カトマンズの街並みは、アジアと違った景色でした。シンプルで、贅沢なもののない 町並みでした。宮城国際支援の会(鈴木信氏)の活動は、実際の村の人たちの生活 を身近にして、村を向上するという目的の上、小さなことから1つ1つ積み重ねて 活動していることを感じました。そしてその裏の苦労とネパールの方たちが認めてい る実績、本当に凡人にはできないすごさを感じました。カガチ村へ行って、実際に診療 所で村民を見て何を感じたかというと、皆実際の年齢より老けて見えたという事です。 私が気になって見えた状況は、小さな子供でした。 自分に2歳前の子供がいるので、そのイメージで同じくらいかなと創造して 年齢を聞くと3.4歳というのには驚きました。 生ることだけの生活というものを感じました。カガチ村の小学校に行った際感じた ことは、村の人たちに比べて学校の子供達はとても元気があったので驚きました。 このパワーを育てていきたいと思いました。  今回の体験で、自分の生活、生まれ育った環境がいかに恵まれていて幸せだということを感じました。生きることが楽しめて、おいしいものが食べられて、それがどんなに恵まれていることか現代人に伝えてあげたいです。 物がありふれすぎている今の生活から生きる最低限の生活をみたことが一番心に感じています。その人たちに触れたことも含めて現在の生活の裕福さを見つめなおせたと思います。  こんなすばらしい体験をさせていただけて本当にありがとうございました。 何か仕事でもネパールとつなげていくことができればと考えています。 もっともっとがんばって行かなければと思いました。これからもよろしくお願いします。